小平市役所
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『小平町報』の創刊号は、昭和26年(1951)7月である。その町報一号を飾ったのが、「召上れ小平西瓜」の記事と「小平特産西瓜」のポスターである。水着姿の娘さんがバスケットボールでもしそうな仕草で、大振りの西瓜を持ち上げている白黒写真である。品種は不明であるが、当時の新聞記事から推測すると「新都」かも知れない。
「新都」は、東京府が都に昇格したのを記念して命名された新種の西瓜である。「新大和(大和三号)」と千葉県農試で育成されていた「都二号」を交配した品種であった。東京が府から都に格上げされた(昭和18年)のにちなみ「新都」と命名された。早生で、玉付きがよく、豊産種で、そのうえ甘度(糖分12~13度)も高かった。表面はくっきりした縞模様、皮は薄く、中は薄桃色で食欲を誘った。
撒き付けは4月10日前後、梅雨期に太らせ、梅雨明け1週間から10日、真夏の暑い日照りによって完熟させる。理想は、梅雨明けの湿度の高い夏の夕べ、家族団らんの中、冷えた西瓜を割り、食することである。そのうえ祖霊を招く、お盆にみごとに赤く色づいた完熟西瓜は、各家庭で歓迎され、農家の喜びもひときわであった。
だが、「西瓜栽培は賭博(ばくち)だ」といわれ、栽培は難しく、市場価格の変動も激しかった。その西瓜が小平の耕地を席捲し、名産として小平の名を高めたのは、戦後間もない1950年代前半であった。
しかし、スイカは連作ができず、一度植えるとその後10年は栽培不可ということになる。そこで昭和33年度には、農林省東京統計調査事務所の調査では三多摩地区のスイカ作付面積は前年度比77%と減少しており、なかでも北多摩郡下の落ち込みが特に激しかった(「読売新聞三多摩版」1958.4.15)。それと平行して、小平の農地から西瓜玉が消え、いつしかそこには住宅が建ち、西瓜は八百屋やスーパーでしか見ることができないようになってしまった。
そして、スイカの食べ方にも変化が生じていった。今日、スイカというと冷蔵庫で冷やし、包丁で何等分かに切って、食するのが一般的であろう。でも、冷蔵庫のない時期にはどのように食べたのであろうか。常温より井戸や用水で冷やせば甘味が増し、おいしく感じたのは確かなのだ。
だが、小平では、スイカを水で冷やすのは一般的ではなかった。サツマイモなどを保管しておいた土穴(室=ムロ)に寝かした方が、温度が下がったのである。灼熱の炎天下での農作業から帰ったおり、カラカラに乾いた喉に、ひんやりとしたスイカは格別であったろう。それも電気冷蔵庫の普及でなくなってしまった。
なくなったといえば、子どもの遊びであったガントウである。食したあとのスイカの中
をくりぬいて、ロウソクを立て、提灯の代わりにした遊びである。ガントウを持って、夕飯後に、近所の仲間を誘い、「肝試し」に神社や墓地に出かけた。それは子どもにとって、暗闇に漂うその「火の玉」は、食するより、身体を寒々とさせたことに違いない。
【参考資料】
【お願い】
昭和24(1949)年7月9日付の『毎日新聞都下版』に「小平西瓜」という品種が記述されているのですが、どのような特徴・特色を持っていた西瓜なのか、おわかりでしたら教えていただけないでしょうか。ご一報下さい。