小平市役所
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小平で生まれ育った私は、小川村開発の願い人・小川九郎兵衛安次の子孫である小川愛次郎氏(1876~1971年、以下、敬称略)が、戦時中、中国で活躍したことを、子どもの頃、父から断片的であるが、よく耳にしていた。
昭和35年頃だと思うが、子どもを連れて小川愛次郎宅を訪問したときは、小川の旧名主屋敷に、奥様とお二人の生活であった。
はじめてお会いした小川愛次郎は、恰幅がよく、にこやかな中にも威厳があった。私の子どもたちに小川家の歴史等を熱く語り、「由緒ある家系の誇りを胸に秘めてしっかり生きるよう」にと、当時85歳とは思えない厳しさと情熱を込めて話して下さったことが忘れられない。
小川愛次郎は、明治維新により明治5年に名主制度が廃止された時の最後の名主・小川弥次郎(九郎兵衛安次から12代目、小平村会議員として明治22年〈第一期〉から大正6年〈第九期〉まで36年間在職)の男5人・女2人の次男として、明治9年に生まれ、昭和46年に95歳で没した。
小川愛次郎は若くして、活躍の場を中国に求め、単身大陸に渡った。中国人の中にとけ込み、政治活動もしていたと思われ、国民党総統蒋介石と親交があり、要人として中国政界に大きな影響力を持っていた。草柳大蔵著『実録満鉄調査部』にも、その人柄と影響力等が次のように記されている。
「小川は、東京都小平市の出身で、実家は名主か庄屋であったらしく、いまでも小平市に小川という地名が残っている。中国には自転車の売り込みにやってきたが、もともと気宇壮大な男に商売の勤まるわけがなく、たちまち中国人と親交を結び、事ある毎に中国人を救って、『小川さんは神様みたいな人』と敬愛される存在になっている。その小川愛次郎を中心にグループが出来た。」(『実録満鉄調査部(上)』第二部13)。
小川愛次郎は、人柄が「神様みたいな人」だけではなかった。現実の政治とも深く関わり、中国からの日本軍撤兵も進言している。
「グループの主宰者である小川愛次郎も辻政信と『撤兵』について意見の一致を見、小川は辻の懇請で南京総司令部の岡村寧次大将を説得に出むいた。岡村も『そろそろ撤兵の時機だと思う』という。参謀たちもほぼ同じ意見だった。軍は、ただ、撤兵の方法がわからないのだ、という。軍隊は退却するときが最も弱くなる。だから、戦国時代の昔から「殿軍の将」には、死を覚悟した武将か、精強な部下を持った武将があてられたのだ。軍は、撤兵の意志はあるが、背後に攻撃を受けることをおそれている。小川は『問題はそこだ。誠意を尽くして話せば、中国人という民族は絶対に背後から射たぬ民族なのだ。それが〃中国の心〃なのだ』と力説した。が、軍は信じなかった。結局、岡村大将が東京に飛び、上海でまとまりかけている「撤兵論」のあらましを東条に伝えることになった。
数日後、岡村は肩を落として帰ってきた。東条に話したところ『バカも休み休みいえ』と頭ごなしに怒鳴られたという。
しかし、小川愛次郎は熊谷(康)や刈屋(久太郎)のような若い社員にむかって『石原完爾の東亜連盟も満州国建設の理想も、この〃中国の心〃がわかっていなければ砂上の楼閣だぞ』と教えて倦まなかった。」(『実録満鉄調査部(上)』第二部13)このように小川愛次郎は、関東軍参謀であった辻政信ら要人と意見を交え、日本軍の撤退の筋道さえ描いていたのである。敗戦後は、生家に引き揚げ、小平市文化財審議委員会委員長などを歴任した。
(注)満鉄調査部とは、満鉄の経営、すべての調査等を調査研究するなど中国全土に組織を持っていたエリート集団。関東軍とも密接な関係を持ち、諜報活動もしていた。
私の父は明治16年生まれ、小川愛次郎は明治9年生まれで、年齢が近かったので、愛次郎の活躍ぶりには特別な想いがあったようである。中国大陸で現地の人の中にとけ込み、中国人に「小川大人(ターレン)」と尊敬され、中国の要人と交わるなど活躍している小川愛次郎に、私の父は憧れを持っていた。夕食後などに折りにふれて小川愛次郎の活躍ぶりを問わず語りに話してくれた。私は、小学校4、5年生だったが、小川愛次郎は偉い人だなあと思った。
(注)「大人(ターレン)」:人格高潔で、包容力があり、親分肌の人物に対する尊称、敬語。
小川愛次郎の弟・順之助は、建国間もない満州国大連市長に任ぜられ、昭和7~8年頃に赴任した。末弟の四郎も単身赴任、新京市に住み、私が満州開拓青小年義勇軍に志願し、昭和13年4月満州国牡丹江省に仮入植した頃、手紙をもらった記憶がある。
愛次郎は満鉄、順之助は大連市長、四郎は満州拓殖公社員として、兄弟三人がともに中国大陸で活躍したのは、小川村の開発願い人・小川九郎兵衛安次の開拓魂が脈々と息づいているからなのだろうか。