小平市役所
法人番号:2000020132110
〒187-8701 東京都小平市小川町2-1333
代表 042-341-1211
江戸時代から小平を通る青梅街道と五日市街道のお話です。
小平を東西に長く通る青梅街道は、新宿から青梅を通って、山梨県の甲府まで続いている街道なんだよ。
青梅街道は江戸時代のはじめ、江戸城を造り直すときに、青梅の成木(なりき)や小曽木(おそぎ)から御白土(おはくど)(石灰)を馬で運ぶために使われた道でね。
成木道、御白土街道とも呼ばれたんだって。
そのころ、小平のあたりはすすき野原だったんだよ。
そのあと、江戸の町に人がたくさん増えて、水が足りなくなったんで、多摩川の水を引いて、羽村から四谷まで玉川上水ができたの。
それで小平のあたりは玉川上水から用水をひいて、やっと人が住めるようになったんだそうだ。
昔は馬のひづめを守るために、わらで編んだ馬用のわらじがあって、そこで馬のわらじも替えたんだって。
このあたりは風が強いので家のまわりにたくさん風よけの木を植えていて、屋敷森と呼ぶくらいうっそうとしていたの。
けやきは大きくなって家を建てる時の材木になったの。
かしは硬いから、すきやくわなんかの棒に使ったよ。
ほかにも、いろんな木を植えていて、落ち葉はかき集めて、堆肥にしたね。
ひいらぎは魔除けにもなるっていって、垣根にする家が多かったよ。
ちくちくして痛いから、泥棒よけにもなったんだよ。
小平は昔からさつまいもの本場でね。
中野の市場まで、青梅街道を通って運んだんだよ。
戦後の昭和20年以降になると、さつまいもだけじゃなくて、里芋、八頭(やつがしら)、麦なんかも共同で出荷するようになったの。
袋に詰めて、家敷の入口の所に置いておくと、トラックが集めに来たんだって。
青梅街道は小平を一直線に通っているんで、集めるのに便利だったのよね。
昔は今みたいにお店屋さんがたくさんなかったから、青梅街道にはいろんな行商人や芸人がやってきたんだよ。
毒消し売りは、富山のほうからくる薬屋さんで、年に1、2回来たね。
子どもたちに紙風船をくれるんで、みんな楽しみにしてたの。
夏になると金魚売りがリヤカーを引いて、「きんぎょー、きんぎょー」って言いながら、通って行くんだけど、ガラスの風鈴もいっしょに売っていて、風鈴の音が鳴って、涼しそうだったよ。
秋になると、さんま売りが、「さんまこー」って言いながら来たね。いわし売りも「いわしこー」って言いながら来たよ。
このあたりでは海が遠いから、魚なんて、あんまり食べられなかったの。
それでさんまやいわしが食べられるのが楽しみだったね。
昭和の初めごろは、お正月になると、二人一組で三河万歳(みかわまんざい)が来たそうだよ。
一軒一軒、鼓(つづみ)を打ちながら、おめでたい言葉を言ってまわったんだって。
猿回しも小さな太鼓(たいこ)をたたきながら、猿を肩にのせてやってきたよ。
青梅街道はまっすぐだから、遠くからでもよく見通せて、行商人や芸人が一軒ずつ入っていくのが分かるんだよ。
それであとどのくらい経ったら、うちのほうに来るっていうのが分かるんで、みんな、わくわくしながら待ったもんだよ。
五日市街道は、小平では玉川上水に沿って、東西に通っているね。
五日市から高円寺あたりで青梅街道につながる街道で、昔は炭やまきを五日市のほうから江戸に運ぶのに使われたんだって。
だから、黒街道とも呼ばれていたの。
そのころは檜原(ひのはら)や奥多摩のほうで炭焼きが盛んでね。
五日市には炭やまきの問屋があって、まわりの村から集めて、江戸にたくさんの炭やまきが出荷されたそうだよ。
ガスや電気がなかったころは、炭やまきは暮らしに欠かせないものだったね。
(注)市報こだいら2019年1月1日号から抜粋。
市報こだいら2019年1月1日号 こだいらちょっとむかし(PDF 431.1KB)