小平市役所
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小平市内にかつて『範多(はんた)農園』と呼ばれる広大な農園があったことを知ったのは昭和62~63年のことだった。小平市役所に勤務している方から「鈴木町2丁目にある日本植物防疫協会の敷地は元範多はんた農園と呼ばれ、その敷地内に大岡越前守の屋敷にあったといわれる白壁の土蔵がある。一度訪ねてみませんか」と誘われた。
その白壁の蔵は近隣には見かけない趣きで保存状態もいいとのことで、小金井カントリー倶楽部北側一帯は、戦前まで貿易商をしていた範多(はんた)範三郎ことハンス・ハンターの農園だったそうで、その蔵はハンター氏が麻布に構えていた別邸から移築したらしい。古くからの付近の人々からは“越前さんの蔵”とよばれていたそうだ。ハンター氏は小金井カントリーとも関係しているかもしれない。どちらも昭和12~13年頃に建設されているという。
貿易商ハンス・ハンターといい、大岡越前守屋敷の蔵といい初耳のことばかりで、にわかに信じがたい話だった。ハンス・ハンターは名前からするとドイツ人と思われたが、ラトヴィア人らしいとのこと。
当時、ラトヴィアはまだソビエト連邦のバルト三国の一つで、はるか遠い北の国というぐらいのおぼろげな知識しか持ち合わせてなかった私は“ラトヴィアの貿易商”だというハンス・ハンターと“越前さんの蔵”との間に、どんなドラマが潜んでいるのだろうかと、勝手な想像をふくらませた。
その当時、連続テレビドラマ「大岡越前」は「水戸黄門」や「遠山の金さん」と並んでお茶の間の人気番組だったので、大岡越前守を歴史上の実在の人物というより、時代劇やテレビドラマの主人公ぐらいにしか受け止めてなかったが、歴史が身近にも感じられた。
昭和63年当時、小金井カントリーのコース北側に接して、鈴木町二丁目住宅街の一角に東側から(財)残留農薬研究所・(社)日本植物防疫協会小平分室 ・植物防疫資料館、農林水産省農薬検査所が “ダンゴ三兄弟” のように並んでいた。その年の旧盆過ぎに“越前さんの蔵”が保存されている日本植物防疫資料館長の古山清さんを訪ねることになった。古山さんは第二次大戦後まもなくから同協会に勤め、生き字引のような存在だという。
“越前さんの蔵”が大岡越前守屋敷にあった蔵かどうか…鳶色の瓦屋根は晩夏の陽射しを浴びて濡れたように光っており、蔵の姿形も小平近在農家に古くからある土蔵に比べてこぶりで優美だった。
古山さんは昭和23年(1948)9月、日本植物防疫協会の前身である『社団法人農薬協会』の試験研究農場が当地に開設されて間もなく病理担当として勤務するようになった。当時周囲は草茫々で人家は数えるほどしかなく、試験場敷地の一角の大小二棟の温室と白壁造りの土蔵は目立っていた。
食糧不足が深刻で農作物の増産が急務にもかかわらず、全国の田畑は戦時中の酷使と肥料不足で疲弊しており、各種各様の農薬や肥料が氾濫。それらの中には成分不足や悪質なものが少なくなかった。一方、アメリカからDDTやBHC などの殺虫剤や農薬が大量になだれ込んできており、農薬による防除の推進や不良農薬や植物防疫の試験研究を目ざして社団法人農薬協会は設立された。
職員は試験栽培や農薬殺虫剤の成分分析に日々追われていたが、古山さんは研究所用地が範多(はんた)農園の跡地であったことを知る機会があり、さらに徹夜で泊まり込むこともあった蔵が、かつて父親が“越前さんの蔵”と呼んでいた土蔵だと分かって驚いた。戦後の資材不足で施設建設は追いつかず、 温室も土蔵も研究施設としてフルに利用していた。
古山さんの父親は庭師をしており、東京帝大を初め府内の公園や政財界人の邸宅の庭を手がけ、赤坂のアメリカ大使館の隣にあった範多(はんた)事務所にも、よく出入りしていた。古山さんが少年時代に父親から聞いた話によると、ハンス・ハンターはイギリス人実業家の父親と日本人の母親の間に生まれ、 日本名は範多範三郎(はんたはんざぶろう)と名乗っていた。彼の父親は関西で一二を争う大財閥だった。
ハンス・ハンター自身も鉱山関係の事業を手広く営んでおり、その本拠としていた赤坂の範多(はんた)事務所であった。二階のプライベート部分のベランダでは、趣味としていた洋蘭や高山植物栽培の温室を設けていた。古山さんの父親はそれら栽培の相談役を務めていた。ハンター氏は麹町に本宅を、麻布周辺に別宅も構えており、 その別宅の庭に“越前さんの蔵” があったそうだ。
元々は大岡越前守屋敷にあったといわれる土蔵を、ハンター氏が惚れ込んで別宅に移築して、さらに小平に農園を設けるのと前後して、麻布区宮村町(現在の港区麻布十番) にあった別宅から蔵も移築されたとのこと。それ以上詳しい話を聞く前に古山さんの父親は他界してしまった。
ハンター氏がどういう意図で小平に農園を設けたのか…。ここで情報の糸がプッツリ切れてしまったように思われたが、数日後、偶然にも「8月31日午後1時25分からNHK第1テレビの 『関東ネットワーク』 で、在りし日の ハンス・ハンターについて放映があります」と、古山さんから知らせを受けた。
放映時刻にテレビのスイッチを押すなり画面に白い帆を張ったヨットが湖水を次々と滑るように横切って行く。ヨットレースや外国人のリゾート風景など信じられない光景に我が目を疑ってしまった。「これが本当に中禅寺湖なの!?」。放映によると、ハンス・ハンターは7歳で英国に留学、ロンドンのロイヤルスクール・オブ・マインズで鉱山学を修めた後、米国各地の鉱山を視察。同窓生仲間と朝鮮でソウル マイニングの経営に参加して金鉱山で成功を遂げた。明治末期に日本に帰国して大分・鯛生(たいお)金山、宮崎・見立(みたて)錫(すず)鉱山など
の開発・経営に手腕を発揮する一方、 本拠地を東京に移して中禅寺湖のリゾート計画にも着手した。ラトヴィア出身で日本に亡命していた秘書や周囲から推されてハンター氏はラトヴィア総領事も務めており、その関係からハンス・ハンターはラトヴィア人だという噂が流布されたらしい。
そのハンター氏の側近を務めていた伊藤徳造さんが、奇遇にも範多(はんた)農園の跡地である日本植物防疫研究所のすぐ近くに住んでいた。古山さんは伊藤さんと顔見知りであったが、この放映の一件で初めて範多(はんた)農園関係者だと知ったそうだ。伊藤さんは当時78歳という高齢だったが壮健で、決して饒舌ではないが封を切ったような語り口で「鈴木街道から小金井カントリー倶楽部との境界まで、この辺り鈴木町2丁目772番地一帯はそっくり範多(はんた)農園の敷地で、1万6000坪もあったんですよ!」。私の想像をはるかにしのぐ規模だった。
1万2000坪にのぼる農場は英国のカントリースタイルで、本格的に土壌改良を施して、 戦前にレタスやセロリなどの洋野菜を栽培したり、温室ではトマトの水耕栽培も試みていたという。「約4000 坪は宅地で、那須塩原の庄屋だった豪邸を移築した母屋は、ハンター氏が一切の事業を整理した資産と理想を注ぎ込んだものですから、それは素晴らしいものでした」と、伊藤さんは往時を今のように語るのだった。その母屋は昭和12~13年頃完成直後に、東京市から迎賓館として使いたいから、譲ってくれないかと申し出があったそうだ。二階四室はゲストルームで高級ホテル並みの仕様だった。
伊藤さんによると鯛王(たいお)金山は最盛期には東洋一の金の産出量を誇り、見立(みたて)鉱山は日本では唯一の錫すず鉱山でどちらも日本の鉱山開発と近代化に大きく貢献を。鉱山事業と平行してハンター氏が創設した奥日光中善寺湖畔に鱒釣りを中心とした『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』は在日外交官や日本の上流階級の紳士的な社交の場で、彼の理想郷でもあった。日英両国を母国とするハンス・ハンターには国際親善こそが日本の将来の目指す道だと、信じて疑わなかった。口先だけの平和主義ではないものを求め見果てぬ夢を抱いていたそうだ。同倶楽部は秩父宮、東久邇宮(ひがしくにのみや)、朝香宮(あさかのみや)を賛助会員に、代表は佐賀藩主の家柄の鍋島直映(なおみつ)公爵、会長は時の加藤高明首相、副会長には三菱財閥の岩崎小弥太男爵、会員には後の日銀総裁土方久徴、古河財閥の古河虎之助男爵、樺山愛輔伯爵ら錚々たる人たちが名を連ね、ハンター氏の社会的地位と交際の広さ、財力を物語っている。
中善寺湖畔大崎にあった元トーマス・グラバーの別荘を譲り受け、改築して『西六番館』と称してハンター氏は夏場を過ごし、『東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部』 のクラブハウスも兼ね、中禅寺湖畔で鱒の養殖も手がけていた。中善寺湖尻の出身でハンター氏の書生として、『範多(はんた)事務所』で寝起きし身近に接してきた伊藤徳造さんの話では、ハンス・ハンターはとにかくスケールがでかく、事業も遊びや趣味にも全力を注いで最高のものを求めたという。昭和4年夏、中禅寺湖で繰り広げたヨットや和船レース、湖畔で繰り広げた国際親善の和やかな風景をハンター氏は一六ミリ映画フィルムに収めたが、その
後、日本は満州事変を契機に軍国化孤立化の一途をたどり、世界第二次大戦を目前に同倶楽部は解散に追い込まれてしまった。