小平市役所
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近藤勇や新選組といえば、幕末の京都を舞台に活躍した志士・剣術家として知られています。また、近藤や新選組副長の土方歳三は多摩地域の出身ということもあって、ゆかりの調布市や日野市、町田市では、博物館展示やイベントなどでこれまでたびたび取り上げられてきました。
しかし、近藤勇は、小平市とも大変ゆかりの深い人物で、その関係は、小平市に残された地域史料のなかに、しっかりと記されています。以下、小平市と近藤勇との関わりから、幕末の動乱と地域社会との関係について見ていきましょう。
今回は、廻り田新田に生まれた一人の女性から、多摩の地域資料と新選組との関わりを考えてみたいと思います。
ここで取り上げるのは、小平市域の新田村である廻り田新田(現小平市回田町)で、享和2年(1802)に山田家の三女として生まれた「ゑい」という女性です。
廻り田新田は享保の武蔵野新田開発で開かれた、家数14・5軒ほどの小さな新田村落です。山田家は廻り田新田に最初にやってきた家の一つで、寛保元年(1741)に久米村(現所沢市)から入村し、年番の名主・組頭を勤めました。山田家と共に年番で名主・組頭を勤める斉藤家は、開発の中心となった斉藤太郎兵衛の家です。
小平市には現在、廻り田新田の古文書として、この両名主家の史料が、斉藤家文書は7,095点、山田家文書は736点が残されています。それぞれ昭和56年(1981)に小平市中央図書館に一時借覧・寄託され整理されました。斉藤家文書には、新田開発を指揮監督していた大岡越前守忠相が署名した検地帳なども残されています。また、山田家文書・斉藤家文書ともに、小平市中央図書館において複写本およびマイクロフィルムの閲覧・複写が可能で、目録や史料集も刊行されています。
斉藤家文書・山田家文書には合計104点もの宗門人別帳(江戸時代の戸籍帳簿)が残されています。山田家のゑいの名前は、文化元年(1804)から文化12年(1815)までの12点(斉藤家5点・山田家7点)の宗門人別帳に記されています。
はじめてゑいの名が記されるのは文化元年の宗門人別帳で、そこでは組頭(山田)庄兵衛家の記事に「同(娘) ゑい 年三才」とあります。その後も、文化2年「娘 ゑい 年四才」・文化7年「ゑい 年九才」と順調に年を重ねていく様子が読み取れますが、ゑいの名前は文化12年に「娘 ゑい 年十四才」とあるのを最後に姿を消します。
翌年以降の宗門人別帳には、「外ニ女壱人江戸へ奉公ニ差遣」とあることから、ゑいは江戸へ奉公に行ったと考えられます。そして、この記載は、文政10年(1827)に無くなります。この年、ゑいは嫁いだと考えられますが、その嫁ぎ先こそ、近藤勇の生家である上石原村の宮川家です。
調布市中村家に残された上石原村の天保9年(1838)の宗門人別帳の宮川家の記事には、「高七石壱升弐合 百姓 源次郎 年六十七歳 同人伜 久次郎 年四拾歳 同人娵 みよ 年三拾七歳」とあります。この久次郎の嫁みよが、山田家から嫁いだゑいです。
みよと名を変えたゑいは(改名の時期は不明ですが、江戸に奉公へ行った文化13年か、嫁した文政10年でしょうか)、音五郎、粂次郎(粂蔵)、勝五郎の3人の男子を授かります。この勝五郎こそ、のちの新選組局長、近藤勇です。
しかしゑいは、この宗門人別帳の翌年、天保10年正月に38才の若さでなくなります。のちに近藤勇となる勝五郎は、まだわずか6才でした。宮川家の菩提寺である三鷹市龍源寺には、ゑいの夫である宮川源治郎(久次郎)の墓石がありますが、その墓誌には「名は栄、多摩郡廻り田新田山田庄兵衛長女、五代源治郎妻と為す」とあります。
母を失ったのちも勝五郎は着実に成長し、嘉永元年(1848)には2人の兄とともに、江戸市ヶ谷試衛道場を中心に多摩地域に勢力を伸ばしていた天然理心流に入門します。めきめきと頭角をあらわした勝五郎は、翌嘉永2年6月に早くも目録を受け、10月には天然理心流宗家近藤家三代目近藤周助の養子となっています。
残念ながら小平市域には天然理心流や近藤勇の痕跡は残されていませんが、多摩地域の地方文書には、多くの近藤たちの痕跡が残されています。以下、手に取りやすい刊行された史料の紹介を兼ねて、見ていきましょう。
調布市史編纂委員会編『調布の近世史料 下』に収録された、下仙川村田辺家文書の「剣術稽古覚帳」からは、安政3年(1856)に近藤が烏山村や境村・牟礼村などを廻村して各地で稽古を付けていた様子がよくわかります。
剣術の隆盛を示すイベントに、神社で行う奉額・奉納試合があります。万延元年9月晦日(1860)に府中六所宮(現府中市大国魂神社)で行われた天然理心流の奉額の様子を記すのが府中新宿(現東京都府中市)の比留間七重郎の「諸用留」です。万延元年9月の記事には、額の準備から世話人の集会、五組行われた奉額の形試合からその晩の宴会に至る過程が克明に記されます。
「諸用留」を含む安政6年から慶応3年(1867)までの比留間七重郎の日記類は、府中市郷土資料集8『比留間家日記』として活字に翻刻され、また同史料を含む比留間家文書は、府中郷土の森博物館によって整理され『新宿比留間家文書目録』として刊行されています。
この奉額行事で、額にする材木を運んだのは歳三の兄糟谷良循で、歳三もこの奉額に参加しています。額に書を認めたのは多摩でも指折りの書家である本田覚庵で、覚庵の日記にもその様子が記されています。
覚庵は土方歳三と縁戚関係にあり、日記には「…近藤勇石田年蔵来…」「…老母東朔日ノ石田ノ年蔵病気ニ付、日ノ佐東へ行…」など、たびたび近藤や土方が登場します。これら覚庵の日記を含む本田定弘家文書は、国立市により『本田定弘家所蔵文書目録』『本田覚庵日記』として、覚庵の息子で明治期数奇な人生を歩む定年の日記も『本田定年日記』として活字化されています。
近藤家の養子になった勇は、やがて多摩の後援者のバックアップを受けて天然理心流宗家を相続します。その様子を記すのが、連光寺村(現東京都多摩市)名主で多摩の有力門人の一人である、富沢忠右衛門の日記です。
万延2年8月20日の記事には「…江戸市ヶ谷柳町近藤周助使沖田惣治郎来ル、右は周助儀老衰およひ養子勇ミに相続致させ候ニ付、相替ず引立呉候様、且右披 旁来ル廿七日府中松本屋え集会之上、六所宮地内ニ而野試合調練致候間、出席致し呉候様進物弐品相添書状持参…」とあり、続く8月27日の記事には「今日府中松本楼に於て近藤勇四代目相続披露ニ付、明太郎同道ニ而出席、六所宮境内ニ而板割野試合興行」とあります。
周助の使い沖田惣治郎とはのちの沖田総司で、勇の天然理心流相続を披露するため27日に府中六所宮で野試合を行うことを伝え、富沢は野試合に出席しています。
この日記を含む富沢家文書は9,715点からなり、国文学研究資料館所蔵です。目録は『史料館所蔵史料目録 第六集』に、日記は『農民の日記』として安政7年から明治2年(1869)までの10冊が活字に翻刻され刊行されています。
万延2年10月3日の富沢の日記には「今日近藤勇試衛場英(永カ)続講世話人日野宿玉屋方え集会、宝雪庵同道盛事方え行、右相続講壱口壱両掛、連衆百人講之趣仕方相立…」とあり、近藤は多摩の門人の資金援助を受けて宗家を相続したことがわかります。
同道している宝雪庵とは、恋ヶ窪村(現国分寺市)から出て蕉門の俳人として名をなした、宝雪庵可尊です。可尊の句集などを含む国分寺市の史料は『国分寺史料目録』に、『国分寺市史料集3』では可尊関連の文芸史料が活字化されています。
沖田総司というと天才剣術家を思い浮かべますが、それは必ずしも創作イメージではありません。小野路村名主小島鹿之助の日記には、文久2年7月15日(1862)の記事に「…近藤勇先生門人沖田惣次郎殿、当十三日より道助方へ代稽古罷出られ居候処、是又麻疹体ニ付、門人佐十郎布田宿迄馬ニ而送行、症之軽重相分ず、此人剣術は晩年必名人ニ至る可き人也、故ニ我等深心配いたす…」とあり、当時多摩の門人の間で既に名人になると評価されていたことがわかります。
この小島家の史料は町田市にある『小島資料館』に所蔵されています。鹿之助の子孫で館長でもある小島政孝氏は著名な新選組研究家で、『小島日記』『小島日記物語』など精力的に小島家の史料を活字化しています。
このように、多摩地域の地方史料のなかには、同時代の村人によって記された近藤や土方の痕跡がしっかりと残されているのです。また、以上ご紹介した小平市域の古文書の紙焼きや、活字に翻刻され出版された地域資料はすべて、小平市立図書館で見ることができますので、一度手に取ってみてください。