小平市役所
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今回は、小平を離れて宮川家へ戻った惣兵衛のその後から、幕末の京都を舞台とした政局と、多摩地域の人々がどのように関わったのか、見ていきたいと思います。
泥沼の離縁騒動を経て実家宮川家に戻り宮川惣兵衛となった惣兵衛は、今度は幕末政局の片隅に登場することになります。弟勝五郎は新選組局長となって京都を舞台に活動しますが、惣兵衛は宮川家を継いだ兄音五郎とともに、新選組の後援者となって連絡を取りあう一方、勇不在の江戸近藤家の世話をし、また、「風と出」癖からか、時折京都へ赴いて京都政局の情報を多摩に伝えています。
町田市薄井家に残された元治元年8月2日(1864)の宮川惣兵衛の書簡では、同年7月19日に京都で起こった禁門の変について、その様子を克明に記しています。
その書簡によれば、惣兵衛は足痛に苦しみながら7月15日に漸く京都に着き、弟のいる新選組の壬生屯所へ向かったところ、新選組隊士たちは東九条村へ出陣しており、屯所で休んでいたところ、18日夜中午前2時頃、伏見蔵屋敷より福原越後率いる長州藩勢600名余(実際は1600名余)が押し入り禁門の変が勃発します。
新選組は会津藩とともに東九条村の陣から出陣しますが、この時は戦闘にはなりませんでした。19日の早朝には益田右衛門介率いる2千余もの長州勢が蛤御門を突破して御所へ向けて押し寄せ、会津藩と激戦になります。長州勢は御所へ砲撃し、会津藩は必死で応戦するなど「血戦致、古今稀成大合戦之由ニ御座候」と惣兵衛はその様子を記しています。
薩摩藩や桑名藩も会津藩に加勢し、長州勢は次第に劣勢となり、鷹司邸に追い詰められて壊滅します。新選組は御所内で残党を捕縛したのち、翌20日には京都で残党を探索し、21日には、天王山に立てこもった長州勢を会津藩とともに攻略します。そして、橋本の陣で休息したのち大坂へ向かい、長州藩の大坂蔵屋敷などで残党探索を行い、23日に壬生の屯所へ戻ります。こうして禁門の変は終結しました。
惣兵衛は、自らが見聞したこの戦争について「御所向戦之儀は古来より稀成戦ニ御座候間、難局筆紙尽し難く愚[欠損]奉り候間、宜敷御読訳ケ下さる可く候」と感想を記しています。
また、禁門の変の情報とともに、多摩地域へは近藤勇が討ち死にしたとの情報が流れていました。池田屋で多くの長州藩士を殺害・捕縛した新選組は、会津藩と並んで長州勢の標的だったのです。近藤勇と義兄弟の契りを結んだ小野路村の小島鹿之助は、近藤の安否情報を求めて奔走しています。禁門の変を間近で見た惣兵衛は、この書簡の末尾を「尚々新撰組之内一同無事御安[欠損]下さる可く候」としていますが、この惣兵衛からのしらせは、8月23日には小野路村の小島鹿之助のもとに届けられています。
惣兵衛は、その後の京都政局の様子についても多摩に知らせています。慶応元年(推定)10月26日(1865)に兄音五郎に宛てた書簡の中で、「京地模様之儀ハ全 大樹公軍将職御辞退之由ニ而伏見御立退之処…会津侯罷出双方制し、是迄之通り征夷之職相勤られ候様相成申候」と、慶応元年10月に起こった、14代将軍家茂の将軍職辞職騒動を伝えています。
結局この騒動は、一橋慶喜や会津藩主松平容保の奔走によって事なきをえますが、この騒動は幕府側の勢力争いに端を発しています。当時の京都では、京都守護職の会津藩主松平容保と禁裏守衛総督の一橋慶喜、京都所司代の桑名藩主松平定敬が一会桑とよばれる勢力を構成し、孝明天皇の親任を受けて絶大な権勢を誇っていました。
一会桑は将軍より朝廷を上位に置くなど、従来の将軍・譜代大名からなる幕閣とは異なった政権構想を持っており、当時の京都は、一会桑・将軍幕閣・雄藩(薩摩・土佐・越前など)との三つどもえの様相を呈していたのです。このような状況下で、攘夷や長州藩の処分などを思うように進められないことに嫌気のさした家茂が、将軍職の返上を申し出た、というのが、このときに起こった騒動です。
この政治情勢についても惣兵衛は「…当時皇国より仰出され候儀、会津侯万端熟談之上国政取計ふへく由仰出され候由ニ御坐候、尚又一橋公之儀も軍将同様御用成され候間、当節会津侯勢京坂ニ并もの御坐無く候由…」と、会津藩や一橋慶喜が将軍をも凌駕する権力を持ち、京坂で並ぶもののない勢力であったと記しています。
そして、弟近藤勇は、京都において、100人を超す隊士―軍事力を背景に、一会桑勢力の周旋方として、ロビー活動を行っていました。惣兵衛は会津藩の勢力について述べたのち、「風説区々御坐候間、新選組之儀別段相替り候儀之有間敷、此段御安心下さるべく候」と、郷里で新選組のことを心配する家族や親類たちに向けて、近藤たちの活躍を報告しています。
惣兵衛の書簡や、そこで語られる政治情報は、多摩の農村の人々にとっても政局が無関係ではなかったこと、地域の課題を背負って京都で活動している近藤たちの情報は、地域でも共有されていたことを物語っています。
京都から惣兵衛に宛てて出された書簡も残されています。先の書簡に先立つ慶応元年9月20日に、京都の近藤から兄宮川音五郎・惣兵衛に宛てて出された書簡では、「会公始吾輩ニ至迄周旋尽力」と、当時喫緊の課題であった長州藩の処分について、会津藩主とともに近藤たちが奔走していることが記されます。
しかし続けて「愚妻より種々之事書送り候趣承知罷在候得共、当今天下興廃安危之際ニ到、義列慷慨之男子傍観致すべく候形勢ニ之無く」と、江戸に残した妻つねから江戸近藤家のことについての書簡(おそらく、江戸へ帰ることを望む)が届いているけれど、現在は天下の危機で、男子として傍観していられないと、家庭の問題を実兄に吐露したうえで、「此趣意篤々御教諭併婦人は御面倒とハ存候得共、憚り乍ら願上候」と、妻への説得を2人の兄に頼んでいます。
そして「留守宅相替ず御厚情多謝奉り候」と、留守にしている江戸市ヶ谷の近藤家のことを実家の兄に託しています。この書簡からは、政治情勢を伝えるだけではなく、実の兄弟ならではのより親密な関係が垣間見えます。
近藤は江戸の留守宅を実兄2人に託していたようで、土方歳三も宮川両兄(音五郎と惣兵衛)と柳町御内助様(近藤勇妻つね)に宛てて、近藤勇が江戸から京都へ戻ったこと、長州処分の推移などについての近況を述べた上で、「老先生えも其段よろしく仰上られ候」と、近藤の義父周斎への言づてを依頼しています。
また、新選組隊士大石鍬次郎も、惣兵衛に宛てた書簡を残しています。大石は元一橋家家臣で、脱藩ののち日野で大工をしていたところ、元治元年10月に新選組に入隊し、諸士調役として活躍しています。
鍬次郎の脱藩後、一橋家中大石家は弟造酒蔵が継いでいましたが、造酒蔵があやまって新選組隊士今井祐次郎に斬殺されてしまったため、仲裁に入った近藤や土方が、鍬次郎があらためて大石家を相続することで事を収めようと奔走したことが知られています。
大石から惣兵衛に宛てた書簡では「先達而中は大石家相続之義ニ付種々御尽力下され候得共」と、江戸で惣兵衛が調整していたことがわかります。また、この件について、別の隊士が江戸へ向かうので、「其砌は尚又宜敷御尽力之程偏ニ願上奉り候」と、あらためて調整を依頼しています。
結局、一橋徳川家の反対によって鍬次郎の大石家相続は果たされませんでしたが、近藤や鍬次郎のように、江戸や多摩に家のある隊士もおり、惣兵衛がその相談にのっていたのです。
宮川惣兵衛に関する史料は『武相自由民権史料集第一巻 第一編 地域指導層の幕末維新』(町田市立自由民権資料館編、二〇〇七年)、『「新選組!」展-THE SHINSENGUMI EXHIBITION-』NHK、二〇〇四年)に収録されています。
このように、廻り田新田の宗門人別帳から始まる、多摩地域の地方文書のなかの新選組の痕跡は、幕末期の地域を、社会を、政治変動を、政局と地域とのつながりを魅力的に伝えてくれるのです。