小平市役所
法人番号:2000020132110
〒187-8701 東京都小平市小川町2-1333
代表 042-341-1211
小平には、いまも新田開発(しんでんかいはつ)の面影(おもかげ)が残っています。
主な街道沿いには、短冊状(たんざくじょう)に区割りされた土地が街道をはさんで対称に並んでいます。
それぞれの屋敷(やしき)に隣接(りんせつ)して竹やぶがあり、それが地震のときの逃(に)げ場になりました。
小平の土地の形状がどのように暮らしとかかわっていたかを、タマおばあさんに語ってもらう形で紹介します。
今から50~60年ぐらい前まで、ここいらへんは見渡すかぎり畑だったんだよ。
遠くのほうには奥多摩や丹沢の山々があって、お天気のいい日は、富士山もくっきりと見えてね。
今では想像もできないぐらい、広々とした景色だったんだよ。
家は青梅街道や五日市街道などの大きな道沿いにあるぐらいだったの。
建物のまわりには風よけにケヤキやカシの木など、大きな木が植えてあったんだよ。
家が続いているところでは、両側から木がせり出して、街道が緑のトンネルのようだったよ。
それでね、小平って、おもしろいんだよ。
一軒一軒の家ごとに、短冊(たんざく)みたいに細長く土地を持っているの。
どの家も、だいたい同じ地割になっていたね。
これって、江戸時代の新田開発(しんでんかいはつ)の地割りだったんだよ。
青梅街道の南側の家だと、青梅街道から玉川上水まで、ずうっとまっすぐに自分の土地が続いているんだよ。
私の家もそうだったけど、青梅街道に面した場所は、ヒイラギの垣根(かきね)になっていて、家屋敷(いえやしき)があるのね。
そこには、住まいだけじゃなくて、農機具や収穫した作物などを入れる納屋(なや)や物置小屋(ものおきごや)、蔵(くら)や外便所、そして、農作業をする広い場所なんかもあるの。
そこを抜けると、小さな用水路があって、きれいな水が流れていたんだよ。
野菜の泥(どろ)を落としたり、夏になると子どもが水浴びをしたりしたね。
用水路のむこうは竹やぶで、春になると、筍(たけのこ)がたくさん採(と)れるんだよ。
とれたての筍は、あくもなくて、とってもおいしかったの。
私の父親は竹を編むのが上手で、よく竹やぶから竹を切って作っていたね。
かごやほうきを作ったり、竹の葉を農作物の霜よけにしたり、竹って本当に便利なものだったよ。
竹やぶを出たところには細い道が横切っていて、たから道って呼んで、ふだんは街道より、この道を使ったの。
冬は北側が竹やぶで冷たい北風がさえぎられるから、暖かくてとってもいい場所だったの。
それで、宝のようにいいところだから「たから道」だっていう人もいたけど、私のおばあさんは、竹原(たかはら)が縮(ちぢ)まって「たから」だって、教えてくれたの。
たから道のところには、いろいろな花をたくさん植えていてね、きれいだったよ。
その先はずうっと畑が続いていて、ところどころ、お茶の木を一列に植えてあったね。
それは作物の風よけにも、畑の仕切りにもなっていたんだよ。
このあたりからは、遠くのほうに富士山がよく見えたね。
富士山を見ては、「今日は雲がかかっているから風が強そうだ」とか、「朝、山頂が白くなっているので、今年は寒さが早い」とか言って、畑仕事の目安にもなっていたんだよ。
畑の先は雑木林で、その向こうに玉川上水が流れていた。
雑木林を、このあたりではヤマって呼んでてね。
落ち葉を堆肥(たいひ)にしたり、枝はかまどやお風呂の薪(まき)にしたり、ヤマはとっても大切だったの。
大体、このあたりは、こんなふうになっていたんだよ。
去年は東日本大震災という大きな地震があって、大変だったね。
それで関東大震災の話を思い出したの。
もう90年近くたっているから、私の生まれる前の話なんだけど、とってもおっかなかったって、よく親たちから聞いていたよ。
地震が起きたのは、お昼ごろで、うちでも囲炉裏(いろり)に大きなお鍋(なべ)をかけていたんだって。
突然、揺れだしたんで、火事を出さないように、とっさに、お鍋をひっくり返して、囲炉裏(いろり)の火を消そうとしたんだって。
ものすごい勢いで灰がまきあがったけど、火は消えて、ほっとしたそうだよ。
そのあとも、揺(ゆ)れがひどくて、立ってられないぐらいだったんだって。
だれかの「竹やぶに逃げろ」っていう大声がしたもんだから、みんな慌(あわ)てて、裏の竹やぶに這(は)うようにして逃げ込んだの。
みんな竹につかまっていたけど、何度も大きく揺れたそうだよ。
そのたびに用水路の水が、ボッチャン、ボッチャンって、跳びはねて、子どもの頭にかかるぐらいだったんだって。
水が全部外に出てしまうんじゃないかと思うぐらい、すごかったらしい。
家が倒れないか心配して、子どもたちは泣き出すし、それは大変だったんだって。
そのうち土蔵の壁がみるみるうちに崩(くず)れて、ほこりがもうもうと立ち、向こうがよく見えないぐらいだったそうだよ。
畑仕事をしてた人たちはね、地震の前に、「ゴォー、ゴォー」っていう地鳴りを聞いたっていうよ。
「何の音だろう」って言っていたら、すごい揺れがきたんだって。
そのときは畑のワラボッチ(藁(わら)束の山)がポンポン跳びはねたそうだよ。
どこに向かうのか、西のほうに歩いていく人が何日も絶えなかったそうだよ。
ほとんどの人が着の身着のままで、はだしだったそうだ。
それで、ここいらへんの人は、食べ物や水をあげたり、履物(はきもの)や着る物を分けたりしたって聞いたよ。
今回の震災もそうだけど、人が困っているときには、みんなで助け合ったんだよね。
(注)市報こだいら2012年1月1日号から抜粋。
市報こだいら2012年1月1日号 こだいらちょっとむかし(PDF 1.1MB)